萩原裕子:脳にいどむ言語学.岩波書店,1998⑤


エピローグ


言語演算処理の型の分類



 まず、言語にかかわる演算処理には、少なくとも二つの質的に異なったタイプが存在していると考えられる。一つめは、抽象的なレベルでの「規則の適用による文法演算処理」である。これは、言語単位の大きさにかかわらず、生産的であり、規則的で、意味が関与しない言語処理である。つまり、音素、形態素、単語、句、文のいかなる言語単位についても、記号の表示とその変換にかんする心的操作が行われる。
 ここでいう「文法演算処理」の雛形には、文レベルでの「統語演算処理」がある。具体的には、普遍文法の原理の中でもとくに純粋な計算にかかわるもの、たとえばXバー原理、要素の移動にかかわるα移動とその制約としての下接の条件、格原理、などが考えられる。
(中略)ここで提案する「規則の適用による文法演算処理」には、さらに、語の形成にかかわる「形態的な演算処理」や、音素の結びつきに作用する「音韻的な演算処理」も含まれている。
 単語のレベルは、屈折形態素のみならず、形容詞を名詞にする派生形態素も該当する。英語で規則動詞の過去形がつくれない特異言語障害の事例や、失文法ブローカ失語患者が名詞化する派生接辞-サの扱いに、ほかのタイプの失語症患者や健常者とは異なった振舞いをするという事例は、この仮説を支持する証拠となる。 
 音のレベルでも抽象的なルールがはたらいている傍証として、特異性言語障害の患者が、英語の複数形にともなう音韻同化現象に困難をきたすことなどがあげられよう。
(p.117〜119)



ブローカ領域の役割



 ブローカ領域は、「かなりや早い時間帯での自動的な直列文法演算処理を行うための資源を提供している機能的モジュールのありか」であるととらえられる。
(中略)
ブローカ領域の役割にかんするこのような新しい言語学的仮説は、従来の神経心理学の立場から提案された仮説やモデルとは大きく異なる。まず、ブローカ領域は「文の処理にかかわる」とか、「音韻の処理が行われる」というような曖昧なものではなく、より精緻化されている。
 また、「名詞は側頭葉で、動詞はブローカ領域で処理される」というような主張もこれまであったが、脳の機能的モジュールが、前頭葉と側頭葉で統語範疇(品詞)ごとに分かれているようなことがありそうもないことなのは、第3章でみた形容詞から名詞を派生する単語の実験結果からも容易に想像できるであろう。この説に従うと、極端にいえば、名詞の「釣り」と動詞の「釣る」が脳の別々の場所で処理されるというような、非経済的なことになってしまう。言語学的にみると、名詞も動詞も同じ語彙範疇に属している。重要なごとは、メンタル・レキシコンに登録されているそれぞれの語彙項目の記載情報の内容である。ブローカ失語患者が動詞の生成に困難をきたし、側頭葉病変の患者は名詞がうまく使えないことがもし本当であるならば、それは、実験で用いた単語の語彙概念情報に影響されたため生じた随伴現象であって、統語範疇そのものが問題なのではない。
 さらに、最近欧米の研究者たちの「時制という素性の場所」とか、「統語表示そのもののありか」などという主張とも異なる。素性や表示そのものがブローカ領域の神経回路網に蓄えられているとは、到底考えにくい。
(p.119〜122)



音や意味のパターン連想と側頭葉


言語にかかわる処理方式の二つめとして、音と意味による「パターン連想処理」があげられる。これは直列的方式で、連想記憶やそれにもとづいたアナロジーにかかわるものと思われる。言語においては、主に音の類似性のパターンがかかわるが、意味の類似性も関与している可能性がある。
この処理方式は、左半球側頭葉の広範囲で行われていると考えられる。
(p.122,123)