酒井邦嘉:言語の脳科学.中央公論新社,2002

第2章「獲得と学習―人間はチンパンジーとどこが違うか」

(p.37)
 そもそも、言語が何かの必要性から生まれたと考えるのは誤りである。この点は、進化の議論によくある落とし穴だ。鳥の翼は飛ぶために必要なものだが、飛ぶ必要性から翼が進化したわけではない。進化の遺伝的メカニズムには、今西絹司(一九二〇〜九十二)が唱えた進化論のような、「なるべくしてなる」という合目的性は存在しない。鳥は、翼が進化したから飛べるようになったのである。同様にして、人間は脳が進化したから言語を使えるようになたのである。

(p.46)

 プラトンの問題に現れているような、言語獲得をめぐるなぞについて整理してみると、次の三つになる。
 第一は、「決定不能の謎」である。これは、与えられる言語データだけから、幼児が言語知識のすべてを決定するのは不可能だという問題である。しかも、六歳頃までの幼児は、推理・類推・論理などの分析能力がまだ発達途上であり、部分的な言語データから帰納的に文法のすべてを推論することなど、とうてい不可能だと考えられる。そもそも決定できないはずのものがなぜ決まってしまうのか。
 第二は、「不完全性の謎」である。刺激の貧困から明らかなように、幼児に与えられる言語データは不完全である。しかも、どのデータが完全で、どのデータが不完全か、という手がかりすらもない。不完全なデータから、なぜ完全な文能力が生まれるのか。
 第三は、「否定証拠の謎」である。文法的に誤った文のデータを否定証拠(負例)と言う。第8章で説明するように、否定証拠も十分に与えなければ、文法を決定することは不可能であることが理論的に証明されている。