酒井邦嘉:言語の脳科学.中央公論新社,2002

はじめに
(p.鄯〜鄱)

「言語」とは『広辞苑(第五版)』に、「人間が音声または文字を用いて思想・感情・意思などを伝達したり、理解したりするために用いる記号体系」とある。一方、「言葉」とは、「ある意味を表すために、口で言ったり字に書いたりするもの」で、言語による表現のほうを指す。この語義は、言語に対する一般的な考えを代表するものだろうが、さまざまな疑問が生じてくる。言語が「記号体系」ならば、それは人間が自由に作った人工的な体系だろうか。音声や文字とは異なる「手話」はどうなるのだろうか。そもそも、言語は意志などの伝達のための手段なのだろうか。人間の言語は動物の鳴き声のようなコミュニケーションから「進化」してきたという説があるが、それが正しいならば、言語は人間だけが使っているとは言えないことになる。
 自然科学は、次々と人間中心主義の考え方を打破してきた。世界地図では、自分の国を中心におく場合が多い。南半球の国の地図では、南を上に表示することもある。これは単に自国を中心とする思想の表れであって、便宜上の手段にすぎない。地球は丸いのだから、地表に中心がなければ上下もないことは明らかだ。地動説は、地球が天空の中心にあるのではなく、太陽を中心とする惑星系の一員であることを示した。さらに天文学は、太陽系が銀河系の端にあることや、宇宙空間には中心という概念すらないことまで明らかにしてきた。一方、ダーウィンの進化論は、ヒトも進化途上の一つの種にすぎないことを教えてくれる。動物行動学は、サルがヒトに似た認知能力を身につけていることを明らかにしてきたし、ヒトが動物の一員であることを強調する。
 それでは、人間とは何なのだろうか。言語を持つだけで、何も特別なことはないのだろうか。人間が生み出す芸術は「文系」として、「理系」からは区別されているので、文学などの芸術の基になる言語もまた、サイエンスの対象ではないのだろうか。言語もまた、人間の文化遺産にすぎないのだろうか……。