佐野洋子,加藤正弘:脳が言葉を取り戻すとき―失語症のカルテから―.日本放送出版協会,2004

(p.21)
失語症者が言語訓練を通しておこなう作業は、言語を再び学びなおすこと、すなわち再学習とは根本的に異なる。言語訓練の理論では、失語症を単に「脳の中で言葉が消失した状態」とは考えない。そうではなく、「言葉を自由に外界から脳に取り込んだり、逆に脳から取り出したりすることが困難になった状態」と考えるのである。
その根拠はいろいろある。一つ例を挙げると、失語症者は、例えば目の前に時計が置いてあって「これは何ですか?」と問われると、ある時は苦もなく「時計です」と答えられるのに、次には「えーっと、これは………」と言葉が出なくなることがよくある。これはほんの一例だが、このことを解釈するには、失語症=言葉の消失とする説では不十分である。なぜなら、言葉が消失したのである二度とその言葉は脳内に現れないはずで、言えたり、言えなかったりするというのはおかしい。言葉が消失したと考えるのではなく、脳内に存在する言葉を、必要なときに自由に取り出すための神経回路に何らかのトラブルが生じていると考えると、この現象がより明確に解釈できるのである。



(p.37)
 失語症者がしばしば、天田さんのように「聞いても覚えられない」と言うのを、そのまま「音韻情報の記憶力の低下」と短絡して考えるわけにはいかない。聞いた音韻情報から意味を把握する作業を即座におこなえないと、その作業にひっかかっているうちに次々と音韻情報が飛び込んできて、処理が追いつかなくなることが推察される。失語症者の場合、耳に入ってきた音声の分析、音韻のとの鋳型照合、さらに音韻からの意味の理解へと至る一連の情報処理の過程における障害の程度に応じて、結果として「覚えられない」という現象を呈するのである。

(p.41)
 このように単語レベルの聴覚的理解は、言語中枢がほとんど失われてしまった重症の失語症者でも、一ないし二年の経過のうちには、ほぼ可能となる症例が多い。この水準の障害の回復は、二十代あるいは三十代の若い失語症者では特に顕著であり、この回復傾向は発症後二ないし三週間しかたたない時期から観察される。発症時の年齢が高ければ回復は鈍いが、失語症検査の「単語を聞いて理解する」課題で10問全部正解する症例は、発病後二年半以上たった時点の検査では、八割程度にまで達している。どうしてもこのレベルの回復が認められない人は、重篤な語聾の合併例を除くと、反対側の大脳半球にも病変を認める場合がほとんどであった。


(p.43)
では、「聴覚的に与えられた指示で物品を動かす」ことはどうして難しいのであろうか。
 われわれが「指示により物品を操作する」という課題を実際におこなう場合を考えてみる。「はさみと鉛筆の間に灰皿を置いてください」という指示を聞いたとき、はさみと鉛筆と灰皿の三つが関わることが即座にわかり、「はさみと鉛筆の間」と聞いた時点で、その二つの間の隙間に目が向いて、次に「灰皿」という語を聞いた直後には、灰皿をどの市へ動かすべきかを理解できている。
 ただし、この文章を聞いたときに少しほかのことに気がとられていたり、ぼんやりしていれば、聞いた文章を頭の中でもう一度反復して何を言われたかを確認する必要があるかもしれない。これがもし英語で言われてとしたら、どうであろうか。三個の品物が関与することまでは多少の単語の知識によって何とかわかっても、三個の品物の位置的な関係を確認するためには、文章を頭の中で反復する必要がある。特に文章が長い場合、反復できずに途中でわからなくなって混乱してしまうことのほうが多いのではないだろうか。このように単語の意味さえもすぐには思い出しにくい外国語では、一部の単語の意味を考えているうちに次の言葉を言われてしまうと、「もうだめだ」という状態になってしまう。


(p.79,80)
 実際われわれも、軽症までに改善した失語症者には「まとまり」としての文の表出力を高めるために、セリフのない四コマ漫画にストーリーを付けることや、日記を書くことを宿題にすることがあるが、そこでまさにいま述べたような問題にぶつかるのである。主語もある、述語もある、助詞もある。それなのに全体として何とも言えぬ不自然な仕上がりになっていることがあるのだ。(中略)このような場合われわれは、「どこをどう指導すればよいのかわからない、直しようがない」という印象を持ってしまうのである。事実、このレベルでの言語訓練の方法論は今のところまったく確率されていない。不自然な箇所に立ち止まって、「ここはこういう表現のほうがいいですね」と一つこちらが修正案を提示していくのみである。


(p.103)
 おそらく、「一つの文章の表出がほぼ問題なくできたから、次は談話(ストーリー)の段階へ」というステップの設定に問題があるのだと思われる。文章一つを作成する段階と、複数の文章を用いて、たとえ短いものであれ、まとまったストーリーを構成する段位会との間にはかなりの隔たりがあると考えられる。ところが、その隔たりを埋めるいくつかの段階がどのようなものであるかということについては、まったくといってよいほどわかっていない。